『サラリーマンやめました』
 
脱サラ戦士たちの「それから」  田澤 拓也 小学館

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093797218/250-6263542-5726600

 
まだ50代だから!造園会社で肉体労働をして基礎体力づくり
 
 
 
 川崎市麻生区王禅寺。小田急線の新百合ヶ丘駅から徒歩15分ほどの一角に「蕎麦会席一」がある。普通の住宅を改装した店は、人影もまばらな住宅街にとけこんで、うっかりすると通りすぎてしまいそう。

 首都圏の繊維・不動産関係の中堅企業に長く勤務してきた稲葉武夫(59)が、この蕎麦屋をオープンしたのは00年9月。きっかけは98年初夏、蜂窩織炎(ほうかしきえん)で左足の踵(かかと)が太股のように腫れあがり、1か月ほど入院したことだった。稲葉はいう。

 「結婚して約30年間、ほとんど家庭をかえりみず、とにかく忙しすぎて家にほとんど帰れない。たまに帰っても夜中で翌朝はまた早い。妻ともほとんど会話をしないし、子供の顔もろくに見ない。それで入院した時に、ちょっと待てよ、僕はもう地元に30年ちかく住んでいるのだし、もともと好きな蕎麦をとおして地元の人たちの健康管理に役だつことはできないだろうか、と。そういう思いがうかんだのです」
 生まれは群馬県桐生市。両親は市内で食堂をいとなんでいた。64年、桐生高校を卒業し、2年ほど地元の家電メーカーに勤務した後、首都圏の繊維・不動産関係の中堅企業に転じ、大阪支店勤務をへて、70年に首都圏にもどって王禅寺に住むようになった。
 社内では、主として婦人むけニット服の製造販売を担当していた。毎月半分以上は北海道から九州まで工場や販売店をまわって歩く。蕎麦好きの稲葉は旅先で昼夜つづけて地元の評判の店をハシゴして歩くことも少なくなかった。自宅では、毎月1回、蕎麦会と称して長男の少年野球チームのコーチをした縁で親しくなった仲間たちに自慢の手打ち蕎麦をふるまっていた。
 だから50代なかばに達していたが「蕎麦屋ならできる」と思った。退院して2か月後、98年9月、稲葉は年収900万円の役員の座を捨てて退社した。
 
 
 だが、いくら蕎麦を打つのが好きといっても商売となると話は別である。稲葉は新百合ヶ丘駅周辺で店舗の物件をさがしながら、まず2か月間、腕力を鍛えるために地元の造園会社でアルバイトした。連日側溝を堀り、コンクリートブロックを積むうち、当初はお腹にかかえていたブロックを左右の手で1個ずつはこべるようになった。こうして体力づくりを終えてから、蕎麦畑を持つ丹波の蕎麦屋で3か月、浅草の繁華街の蕎麦屋で2か月と、蕎麦の収穫から店の経営にいたるまで修行した。そうして1年間待ったが、肝心の店が見つからない。当初、自宅での営業に大反対だった妻の雪子(56)に再度「何とかここでやらしてくれ」とたのみこみ、近隣の自治会の了解を得た。妻は、現在も、自宅2階で絵画教室を主宰している。
 7LDKの1階部分を2000万円ちかくかけて改装し、蕎麦打ち台を据えて30席の蕎麦屋ができた。駅周辺なら15坪前後の物件で家賃は月25万円前後するから、自宅での開業は稲葉にとっては好都合。脱サラからちょうど2年後に「一」は開店した。
 稲葉は毎朝4時に起きる。1時間ほど朝刊を読み、気分を盛りあげた後、5時から鰹節を削り、つゆをつくって、厨房のしこみを始める。7時から10時まで3時間かけて計5キロ弱の蕎麦を打つ。約45人前である。11時半に開店し、3時ごろから5時半までの休憩をはさんでラストオーダーは夜8時。近所に本格的な蕎麦屋がないことや、長年ここに住みつづけてきた夫婦の顔の広さも手伝って経営は当初から順調だ。稲葉はいう。
 
 
 「1年目はめちゃめちゃにお客さんが多くて、このまま行ったらどうしようという感じ。1か月800人から900人は来て、客単価は2500円前後でした。以降、少し落ちついて、最近は月600〜700人。でも客単価は3000円になっている。経費を引くと、収入は脱サラ前の半分以下ですよ。以外だったのは、もっと夜のお客が多いかなと思っていたのだが、圧倒的に昼。しかも8割が女性ということですね」
 男性が注文するのは大半が蕎麦と決まっているが、グループでやってくる女性たちはおしゃべりしながら新しい献立にも興味を示す。そこで2年目から蕎麦会席のメニューを加えた。自分は手つだわなくてよいことを条件に自宅での開業を認めた雪子だが、階下の繁盛ぶりに手だすけしないわけにはいかない。雪子はいう。
 「私は関西出身で蕎麦が嫌いだったから反対したんですけどね。でも1年360日家で夕食を食べなかった人が四六時中居るようになって楽しくなりました。これ、仕事がなかったら、たぶん嫌だったと思います。仕事を一緒にするというのは案外楽しいんだなあと思いましたね」
 今年60歳を迎える稲葉も「やっと妻のいいところに気づくようになった」と異口同音にいう。
 「これからは、もう少しゆっくり地元の高齢者の人たちといろいろな人生の話ができる店づくりをしたい。厨房と客席の間をオープンカウンターにして、お客さんと会話をしながら料理を出したい。それが最終目標なんですよ」
 一風変わった「一」という店名の由来を稲葉に聞いた。
 「僕の人生の再スタートの”一”と、ちょうど2001年にむかっていたことと、あとは、まあ、神奈川一の蕎麦屋になろう、と考えたんです」
 一番になりたい。そう願うのは挫折を知らないビジネスエリートだけではない。さまざまな人生経験をへて、新たに「脱サラ名人」への道を歩みだした男たちだって負けてはいない。